きっかけとエピソード

きっかけとエピソード

品川育ちの「地元っ子」。 児童センターの副館長

 昭和36年(1961年)の4月2日、伊藤こういちは千葉県に生まれました。桜の季節に生まれた彼は、満開の桜のようにパッと明るく、誰からも愛される人気者でした。品川区立浜川小学校、鈴ヶ森中学校時代は、柔道、サッカー、バレーボールに熱中。トランペットやギターの演奏も得意で、フォークソンググループも結成しました。 

 しかし、明朗な外見とは裏腹に、当時は家庭不和に悩み、家庭での争いもしばしば。後に、児童センターで働き始めたのも、同じような悩みをもった子どもの力になりたいという願いからでした。 

 都立南高校、関東短期大学を卒業後、臨時教員の職などを経て、昭和60年(1985年)、品川区の職員に。そして、八潮児童センター、水神児童センター、東品川児童センターでの指導員を経て、中延児童センターの副館長に。それぞれの地で信頼の根を張り、品川の各地域に貢献してきました。

 トレードマークのバンダナを巻き、汗をかきながら、子どもたちに溶け込む熱血漢は、名物指導員として有名でした。こうした伊藤こういちに子どもたちがつけたニックネームは、「伊藤先生」を縮めて「いとせん」――。

“目の前の一人”を大切に

 児童センターは、子ども社会を映し出す鏡。なかには、学校や家庭に居場所を見出せない子どもが秘かに「SOS」を発していることがあります。 

 ある児童センターに、不登校気味の中学生がいました。伊藤こういちは、センターの閉館後に、毎日1時間、2人だけの勉強会を始めました。ある時、伊藤こういちに少年が、「いとせん、なんで、そんなにお節介なの!」と食ってかかってきました。 

「僕は、家庭的な事情で苦しんでいる人の力になりたいんだ! 君のような人と会いたかったんだ。だから児童センターで働いているんだよ」。すると、少年はボロボロ泣き始め、「僕だって本当は学校に行きたいんだ……」と、本当の気持ちを語り始めました。その後、少年は勉強に真剣に取り組み、みごと都立高校に合格しました。

 こうしたエピソードは数多く、伊藤こういちは、各地の児童センターで、子育て支援や、児童の健全育成に貢献。テレビ局や朝日新聞、「主婦の友」社などからも取材を受け、児童福祉の現場で、注目を集める実績を残してきました。品川区からの信頼も厚く、日本音楽学校に職員派遣され、児童福祉の講義も担当しました。 

 児童センターで青少年と触れ合った19年間――伊藤こういちは“目の前の一人”を大切にすることがいかに大切かを学びました。この時の経験が、どこまでも目の前の一人を大切にする伊藤こういちの生き方を、より強固なものにしました。 

 この信条の赴くまま、安心・安全の東京を築くべく、都議会議員へと立候補しました。

「命を守る!しながわ防災プラン」を 全力で推進!

 都議会議員となった伊藤こういちは、“子どもの目線”を大切にして、安心・安全の東京を作るべく奔走しました。その後も、“命を守る政治”の実現に向け、精力的に行動し続けています。

 伊藤こういちは語ります。「首都直下型地震の不安を抱える昨今、品川や東京の防災力を、早急に強化しなければいけない」――この思いを形にするべく、平成19年(2007年)2月には、都議会で緊急地震速報の導入を訴え、実現させました。これを皮切りに、防災ラジオの普及や、海抜表示板の導入を推進するなど、着実に防災力強化を推進してきました。 

 そんな伊藤こういちが、平成25年(2013年)「命を守る!しながわ防災プラン」を発表しました。防災力を強化し、いつ東京に大地震が起きても被害を最小限に抑えられるよう、具体的な対策を提唱しています。 

 この「命を守る!しながわ防災プラン」を軸に、今後も伊藤こういちは、「人の命を守る」ための行動を、全力で貫いています。

動画で見る伊藤こういち

伊藤こういちを30秒でわかる動画で
ご紹介します。

きっかけとエピソード

政治家を目指すきっかけとなった、
2つのエピソード。

ごあいさつと略歴

伊藤こういちの略歴を
ご紹介します。